ご存知!四ツ谷用水フォーラムです。今回は少し別視点から用水の話をしました。

こんにちは。今日取り上げる話題は、四ツ谷用水フォーラムです。
年に一回のペースで開催してきましたこのフォーラムも、とうとう4回目。150名の定員で募集をかけましたところ見事に抽選となりまして、大盛況であります。


まずは水・環境ネット東北の副代表をされています、佐々木さんから開会のご挨拶です。
お足元の悪いところ、ようこそお越しくださいました。
水・環境ネット東北では、四ツ谷用水フォーラムの他に、四谷用水を風化させないためにも上流、下流、街中編と題した四ツ谷用水を歩く会を開催しています。今回の講座では四ツ谷用水の整備と政宗の街づくりを2名の専門家の方にお話いただくこととなりました。


では、最初の講師の先生です。
「四ツ谷用水と他の城下用水を比較する」と題しまして、「四ツ谷の水を街並みに!」市民の会 会長の新関昌利さんです。


今は格差時代と言われていますが、藩政時代は身分社会でした。当時は身分が産まれながら決められており、格差は一生続くものでした。農民から上り詰めた秀吉は例外中の例外です。徳川の時代には全く動かせないものとなっています。


その身分の差は、住む「まち」をとっても、侍の町は「丁」を、町人の町は「町」を使うなど、地名においても格差がありました。


そして仙台は街づくりにおいても、寺社を意図的に配置していました。


このころの都市作りでは宗教施設は為政者が考えて自領に配置していたのです。
例えば、もともと米沢にあった梁川八幡は、大崎、岩出山と政宗の移動とともに移ってきています。



商人や工人も、政宗は移動とともに一緒に転居させました。こうした町人には「これこれいつまでに転居するように」と日にちを決めて厳格に指示を出していました。


一番有名なのは北山五山と呼ばれるお寺で、京の五山に倣って配置されています。
当時は城下町の建設にあたり陰陽道を必ず考慮しており、東西南北の四方の伝説禽獣「四神相応」を宗教の高官に問うことをしていたのです。そして北東の方角は鬼門であるとのことで、それを収める重要な寺として定禅寺を配置したのです。


また、当時は城下を貫く大通りである見通しは区画割りにとても大切であり、岩出山からやってきた政宗は現地(高いところ)から直接見て、いまの南北に貫く木町通、青葉城から東へ向かう大町通り、並行する北一番丁などを決めたのでしょう


そして実際に街を作る際には、湿気ったところなどは水路を設置し排水しなければいけません。水が溜まったままだと不衛生ですし、生活雑排水も必要です。
四ツ谷用水は生活用水には使われませんでした。仙台の浄化には豊富な地下水を利用する井戸がありましたので、主に生活雑排水や消防用として活用され、用水の水が地下に浸透はしましたが間接的利用となります。


そして、城下が整備されると土地は臣下に分配されましたが、身分によって住む地域は細かく制限されたのです。
土地が崖で分断されているところを「平(ひら)」といいます。今の片平のあたりには政宗の重臣の屋敷が配置されました。
これらの侍屋敷では、敷地内に家屋を整備する際に、通りから幅一軒分をのちに水路として利用するので開けておくようにと指示が出ています。四ツ谷用水は、城下が整備された初期の頃はごく一部しかできていなかったので、のちに整備することを考えての指示でした。


ですので、結果的に町人の町では用水は道の真ん中に、侍の町では用水は道の片側に流れていたのです。
また、他の都市では水は取水直後から町人と侍で分流し、身分によって水利も分けられています。水の利用は細かく指示が出ており、ゴミを落とさない、牛馬を洗わないなど、厳しく管理されたのでした。


先生ありがとうございます。
当時は何事も侍優先の社会だったのですね。
ではでは、次の講座です。


続いての講義は
「政宗のまちづくりと広瀬川水運」
仙台市博物館 主幹兼学芸普及室長の菅野正道さんです。


政宗が作り上げたのは四ツ谷用水だけではなく、広瀬川水運もあります。
閖上港といえば全国的には赤貝が、ちょっと前ですとカレイも有名ですが、江戸初期の前は交易の港としても発達していました。


東北太平洋岸には南との貿易網が整備され、主に開運を担った一族が守り神の熊野信仰の神を隣町の名取に祀ったことでも解ります。
閖上では愛知の焼き物も大量に見つかっており、海運は大きな目的でしたが、次第に仙台城下5万人の食を支える役割も持つようになり、閖上は交易の港から漁港へと変わりました。


こちら家臣が国替えによる再配置で移動となった際に、荷物二百俵分を送るように指示した政宗の書状の内容。御黒印は、ハンコのことです。


政宗の朝鮮出兵の際にも、ゆりあげを含む4箇所から兵粮を運ぶように指示が出ています。こちらの荷は取りまとめたのち九州へ運ばれていますから、やはり大きな開運網と伴う技術があったのですね。



宮城には図のように北は石巻から阿武隈川河口の蒲崎まで港が並びます。


仙台大橋を架ける際に、不動山(歌津の方)の山から大木5本を切り出して運んだ際の書状です。こちらは牡鹿半島を回航して運んだのですね。
ただし、海面に浮かべて引っ張ったのか、水を吸って重くなった太郎坊次郎坊と呼ばれる大木2本は名取沖で沈んでしまったそうな。


その頃の閖上の港の図面がこちらです。閖上の港の町の対岸に、藤塚という地名も見えます。
仙台城下の整備には、当然のことながら大量の木材も必要となります。この木材は近隣だけでは足りないので、蔵王でも切り出し、白石川〜阿武隈川を流していったん海まで持ってきました。ただし、ここで海を回航はしません。


政宗は阿武隈川の河口から名取川の河口まで、内陸に木引堀といわれる堀を開削したのです。これはのちの貞山堀です。


図面の中で、年代ごとに様々な描き方がありますが、どうやら昔は目立つものが大きく描かれた傾向があるそうで。。。

木引き堀が阿武隈川より太いぞ。

さすがに後年には測量技術も発達したので、図面は正確なものとなりました。
こうやって見ると、湖沼や湿地など、元からあった水路を活用して開削したということが、よく解ります。

こちらも広瀬川水運に関わる書面の、政宗直筆の黒印付きのものですが、この書状と全く同じ日付に作成された書面が残ってまして、支倉常長がヨーロッパを訪問する際に持たせた親書だそうです。

だけど、ヨーロッパに持たせたものは朱で判が押してあったそうな。
「材木を運べ」と「法王への手紙」で判を変えたのか?そこはもう判らない歴史のミステリーです。

広瀬川の水運ルートです。
ちょっと現実の川と即していないのは、川が動いてしまったからです。
そして、閖上からまっすぐ登らずに、いったん対岸に渡っている。これはなぜ?

まずは、どうやって川をさかのぼったか?ですが、高瀬川のなかにヒントの絵があります。
動力のない時代ですから、船の真ん中に柱を立てて、人が引っ張ったんですね。
でも岸に寄っちゃうって?流水なんで舵が効きま〜す。
閖上から直接引っ張っちゃうと、名取川右岸を登ることになる。だけど広瀬川は途中で分岐しちゃうので、流れのゆるい河口あたりで左岸に移った方が楽なんです。ちなみに川は河口に向かって右左。


そして宮沢橋や愛宕橋のあたりまで上ってくると、両岸は家二軒分もある崖となってしまうので、もう登れません。
ここで陸へとあげて、加工用に回したのです。


なので、このあたりの地名を見ると、舟入。南材木町の名前も。
ちょうど荷を上げるのに都合のいい土地だったから、今ではボート漕いでいるんだろうな。


ちなみに仙台の堀で忘れてはならないのが六郷堀と七郷堀。だけど、六郷堀の緩やかな曲線に比べると、七郷堀は真っすぐ。

真っ直ぐな堀は人工的に作ったものとタモさんが言ってたそうな。
七郷堀も、政宗の居城を作るにあたり、城内を貫くように真っ直ぐ堀が開かれていたことが、分かっています。


若林城の普請覚(これこれここを直しなないという、指示書)にも御舟たまりの文字や、御舟入りの文字が見えますね。

こちら、仙台橋の擬宝珠(ギボシ/欄干の飾り)にあった碑文より。

仙台橋下
河水千年
民安国泰
孰与尭天

津梁大哉
直昇仙臺
虚空背上
車馬往来

仙台の橋の下に川の水は千年にわたって流れ
民は安心して暮らし国も安泰
中国の国と同じぐらい永くあれと。(対岸の碑文はパス)

これを読むと。。。ドラマなどで天下取りができたとかギラギラしたイメージ先行ですが、どうやら仙台を未来永劫栄える良い街にしようという心が透けますね。
ちなみに先生は月刊誌Kappoにて、今日の資料なども使った記事を連載されているとのこと。こちらも読んでみてね。


では、質疑応答の時間です。
四ツ谷用水の名前の由来は諸説あるようですが、どれが本当なのでしょう?


これは某テレビ番組では四つの谷を渡ると説明していたものですね。
仙台では谷よりは、むしろ沢を使うことが多いです。ですので、四ツ谷が示しているものは、取水地からとったものと考えます。
仙台では用水や堀の名前などに掘っていた人の名、取水口の名、どこへ続くのか?の名が多用されていますので、私も先生の指摘が正しいのではと思います。


仙台城の水はどうしていたのでしょう?


ご存知のように途中に広瀬川がありますので、四ツ谷用水が使われることはありませんでした。
ですが、青葉山には沢や湧水が多くあり、植物館の裏手で取水した水を上げたり、水に困ることはありませんでした。
また、発掘調査をしてみると判るのですが、仙台城本丸跡は今のように平らではなくデコボコしていて、水を貯めたり井戸を掘ったりなど出来たようです。


仙台『桜川』を復活する市民の会の進捗状況はいかがですか?


東北大学農学部跡地が売却され、ショッピングセンターや病院などに活用されるということで、今は四ツ谷用水の流れを県工業用水から一部分離して復活できないかと、3400人分の署名を集め、要望書とともに提出しているところです。


定禅寺はどうなってしまったのでしょう?
明治維新の廃仏毀釈の際に、なくなってしまいました。


なんか。最後は寂しい感じとなりましたね。。。でも、当時の街づくりが、今の仙台に脈々と引き継がれていることがわかりました。
四ツ谷用水フォーラム。好評のうちに終了です。


ちなみに、たまきさんサロンでは2月16日まで四ツ谷用水パネル展を開催していますので、こちらも是非とも見にきてね〜。

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